March 11, 2011

あの日のこと

(当時を振り返って、2011/4/27に記載)

そろそろ、あの日のことを振り返っておかねばならないと思っている。職場で起こった出来事ということと、同じ職場で働いていた従業員が亡くなっているということから書くのをためらっていたが、やはり気持ちの整理の意味でも振り返っておきたい。なので公開するのはだいぶ先になると思うが、これを書いたのは2011/4/27、震災から1ヶ月半ほど経過したときである。

東北地方の太平洋沿岸が大津波に襲われたあの日、私はいつものように仙台新港の職場にいた。2階の事務所の自分の席にいた。

地震の揺れは最初の数十秒間の前振りの段階でも十分に大きな地震だとわかったが、本当にすごい揺れになったのは最初の揺れが一段落して収まりかけたときだった。それまでは周りから落ちてくるものがないかと気にしつつも机にもぐることもなく立って様子を見ていたが、しかし最後の本格的な揺れが訪れて停電したあたりで冗談抜きにやばい地震だとわかって、事務所にいた全員が机の下にもぐって揺れが収まるのを待った。実際、机の上の書類やモニターが落ちてきたのはもちろん、部屋の隅の突っ張り棚が倒れてきて、人によっては机の下にもぐっていなければ大怪我をするところだった。

揺れがだいたい収まり、周りを見回してみると幸い事務所の中で怪我をした人はいなかった。うちの会社では災害発生時は1階の事務所前に集合して点呼を取ることになっていて、つい1週間ほど前に避難訓練をやっていたこともあって自分たちが事務所前に行ったときにはほとんど全員が既に集まっていた。通常であればここで工場長が点呼を取ることになっていたのだが、混乱していることもあって点呼を取る体制になっていなかったので、急遽私が点呼を取って、人数を把握するとともに地震で怪我をした人はいないということがわかった。

点呼を急いだのは、津波の恐れがあったからだ。停電しているためテレビの情報が入らず、携帯電話はつながらなくて津波到達までの時間がわからない状況だったのでとにかく急いで避難場所へ移動を開始した。移動する途中で弟から電話が入り、マニチュード(確かこの時点では7.9?)とか津波到達予定時刻まではまだ余裕があるなどの情報を得た。避難場所に指定されている体育館に入り、また点呼を取って全員無事に避難が完了したことがわかった。

ここまではほぼカンペキな対応だった。

このあと、ラジオなどで情報を収集し、三陸海岸のどこかの港で7mくらいの津波を観測したという情報を得た。また、携帯電話のワンセグの映像で気仙沼かどこかの港で引き波に乗って本来陸上にあるタンクなどが海に流れ出ているのを見た。

・・・あとから思うと、この段階でここもヤバイのではないかということを感じるべきだったのだが、この時点ではそこまでの危機感はなかった。これが今回もっとも悔やまれることだ。

実際に津波がやってきたのは地震発生から1時間くらいたったあとだった。津波が陸上に上がってくる様子をしっかりと見たのはこの最初のときだけだった。はじめは建物の周りの芝生や駐車場を洗うくらいの流れがやってきて、みんな車はもう諦めるしかないねというようなことを話していた。この段階でもまだ命までヤバイという認識はなかった。

そのころ、ふたたび弟からの電話がつながり、満潮時刻が午後8時過ぎで今はおおむね干潮の時間帯だということがわかった。ただ、そのとき既に津波が足元に来ていて、満潮か干潮かと言うことはもはやあまり問題ではなくなっていて、目の前の津波がどこまで上がってくるのかということだけが問題になっていた。

話をしているうちにどんどん水位が上がってくるのが窓越しに見えた。1階が津波に飲み込まれたくらいのタイミングで、窓越しに写真を撮った。興味本位というよりは、この状況を報告する必要があると思ったからだ。



そのあとまた窓から離れて弟から情報を入れてもらっていたが、見る見るうちに津波の水位が上がり、2階の窓のすぐ下、おそらく2階の床の高さよりも高いところまで水位が上がってきた。そして、濁流と化した津波のスピードがすさまじく速いということもわかった。そのあと窓際に張り付いて見ていた人の中から「もっと高いのがくるぞ」という声が上がり、窓際に張り付いていた人達が一斉に離れた。

それからすぐに窓の高さを越えた濁流が押し寄せ、窓ガラスが割れて会議室に流れ込むまでに数秒しかなかったと思う。

濁流に飲まれる瞬間に考えていたこと。それはせめて呑まれる直前にしっかり息を吸って、少しでも生き延びるチャンスを増やそうということ。しかし窓が割れた瞬間に息を吸い込もうとしたその口は、空気ではなくヘドロくさい海水を飲んでいた。それくらい、一瞬で濁流に飲まれてしまったということなのだ。

濁流の中でもがきながら考えたことは、まずはとにかく水面に顔を出して息継ぎをすること。しかしいくらもがいても水面に顔を出すことができず、このまま溺死するのかと考えた。溺死するというのは苦しいんだろうなと考えた。その一方で、会社の主要メンバーはみんな一緒に濁流に飲まれてしまって、本当に大変なことになった、この会社はこれで終わってしまうのかとも考えた。そして何よりも、職場の女性陣の子供たちが悲しむだろうなと考えた。

そんなことを考えていたら、水面に顔を出すことができた。あわてて息を吸おうとして水を飲んで溺れるのはよくあるパターンなので、確実に息を吸える状況を確認して息を吸った。なぜかそのくらい冷静だった。一息吸って、すぐにまた波に飲まれるんだろうと思っていたのだけれど、幸いにもいったん波が下がったようで、床に足を付けて立ち上がることができた。一部の人はこのタイミングで会議室を出て奥の和室へ移動したけれど、どこへ行っても似たような状況なので私は部屋の中にとどまることを選択した。会議室に残った人は互いに腕を取り合って、一塊になって流されないようにして次から次に襲ってくる波に耐えた。

大半の人がこうして津波に耐えることができたのは、津波の高さがまだ人間が耐えられる許容範囲にあったからだ。壁に背を付けていれば足元をすくわれることがないので、腰くらいまでの水位には耐えられる。さらに腕を取り合って一塊になっていれば耐久力はさらに上がる。これであれば、胸くらいの水位までなら何とか耐えることができた。また、津波がやってきた方向が窓に対して直角ではなく、斜め向きから入ってきたので、部屋の中に入ってきた濁流は津波のエネルギーの一部だけだったということも幸いした。

こうして、10分程度耐え抜いて、第一波をしのぐことができた。

次の段階は、このあと来るかもしれないもっと大きな第二波、第三波にどう備えるかということだった。ひとつのグループは屋根裏に上がり、会議室に残ったグループは体育館のステージにつながる扉を突き破ることを考えた。そもそも一番不幸だったのは体育館にはもう一段高い見学ステージがあったのに、そこにつながる扉の鍵が閉まっていたということだった。この扉が開いてさえいれば全員が難を逃れることができたかもしれなかった。
この扉を突き破るために、最初は2人がかりでパイプいすを叩き付けていたのだけれど歯が立たず、最終的には4人がかりで机を打ち付け、さらに選手交代して2組目でやっと突破することができた。

会議室に残ったグループは全員体育館の見学ステージに避難することができて、次に奥の和室へ行ったグループにもこの情報を伝えようということで和室のほうへ行ってみた。この時点で一番心配だったのは、第一撃のあとに会議室を出たはずの女性陣が見当たらなかったことだった。流されてしまったのかもしれないと半分くらい思っていた。しかし女性陣は屋根裏に引っ張り上げてもらったということを聞いて本当に安堵した。とりあえずまだ屋根裏に上がれていなかった人たちを体育館の見学ステージに案内し、最終的には屋根裏に上がったグループも見学ステージに移動してきて女性陣も含めて全員が見学ステージで津波が収まるのを待つことになった。全員ずぶ濡れで非常に寒く、しかも外には雪が舞っていて凍えそうだったけれど、親しい人たちが全員無事だということがわかったのでだいぶ元気が戻ってきて、見学ステージ上で職場のグループごとに点呼を取ってもらって安否確認を行った。しかしこの時点で5人が津波のあと行方不明になっていることも判明した。

その後はさらに命を脅かすほどの津波は来なかったものの、足元を洗う程度の津波は何度か打ち寄せて、なかなか体育館を出ることができず、日が沈んでどんどん暗くなっていった。

先発隊が3階建ての管理事務所が無事だということを確認し、そこに避難させてもらうことになって移動したときには周りはもう完全に真っ暗になっていた。管理事務所でも着替えや毛布があるわけではなく、ずぶ濡れのままで一晩を過ごした。それでもちゃんとした建物の中は体育館に比べると環境ははるかにマシで、結果としては誰も低体温症とかで亡くなることはなく、とにかく全員がこの一晩を耐え切ることができた。しかし生き延びれるかどうか何の保証もない中でのこの一晩は、おそらくこれまでの人生の中で一番長かった。

この夜の過ごし方は人によって多少違っていた。ほとんどの人は多少うとうとした程度で、眠った人はあまりいないと思う。それでもいびきをかいて眠っているツワモノもいた。基本的には眠っている人もそうでない人もじっと黙って耐えている時間が長かったけれど、しかし体の調子にもサイクルがあるようで、夜中にみんなわらわらと話を始めて、部屋中でワイワイしているような時間帯もあった。話が盛り上がると不思議と体がすごく楽になって、ずっと話をしていたら朝まで大丈夫と思うのだけど、実際にはその状態は長くは続かず、またみんな黙り込んでじっと耐える時間が交互に訪れた。私も何度かうつらうつらして、何か夢を見たような気がしているけれどよく覚えてはいない。そうやって長い夜をやり過ごし、全員が朝を迎えることができた。

こうして、津波被災直後の命をつなぐ取り組みは終わった。


23:59:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

そしてこれからのこと

「あの日のこと」を書いてからまただいぶ日が流れた。今日は2011/8/21。
この震災で学んだことはあまりにも多いのだが、これからの自分にとって一番大事なことをツイッターに書いていたので、それを引用する。これも2011/4/27のことだ。

『うちの社長はハドソン川に飛行機を不時着させて乗員乗客の命を救った定年間近のベテラン機長の話をよくする。重要なポイントは、彼のパイロット人生の全てはその数分間のジャッジのためにあったのだということ。

私のこれまでの人生の経験は、とりあえず震災後3日間の働きには凝縮されていると思う。阪神大震災以前の学生時代にグローバルフォーラムのボランティアを経験し、阪神大震災のボランティアで人の善意が空回りする歯がゆさを経験した私だからこそできたことだと思う。

阪神大震災のときに比べれば、今何をすべきかを考えて適切な行動が取れたとは思っている。でも結局は救えたかもしれない命を救うことはできなかった。

次に似たような状況あるならば、今回で言えば津波が来る前に体育館の扉を壊して、少しでも生き延びる可能性が高いところへ避難させること。つまり本当の危機が訪れる前に、手遅れになる前に危機を察知して事前に対応すること。それが今回のリベンジであり、これからの人生の指針になる。』

津波が来る前に扉を壊すことができるか? 実はこれはとても難しい課題だと思う。まだ何も起きていない通常の世界で、起きないかもしれないリスクのために公共のものを破壊すること。実際にこういうことになってしまったら英雄だけど、結局何も起きなかったらただの馬鹿というか問題児の扱いを受けるだろう。

それでも自らの判断を信じて、そこへ踏み込むことができる人間になりたい。それが大きな課題なのだ。

もちろん、「扉を壊す」というのは今回のことに当てはめた場合のことであり、比喩的な意味に過ぎない。これから訪れる危機の内容や状況によって実際にやるべきことはそのつど異なる。訪れる危機は竜巻かもしれないし、集中豪雨かもしれし、テロだったり飛行機事故かもしれない。その危機をいち早く感じ取り、的確に緊急モードへギアチェンジすること。それが今回の危機を生き延びた我々の使命だと感じている。

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