December 25, 2011
蒲生二本木交差点
蒲生二本木交差点、通称「キリンビールの角」。2011/12/24 14:19 現在の蒲生二本木交差点
高砂埠頭へ続く2kmの直線道路の入り口になる。津波自体はもっと内陸側まで達しているが、壊滅的な被害を受けた地域とそうでない地域の境目がちょうどこの交差点。
震災直後の1週間はこの交差点から先は関係者以外立入禁止で、結果的にここが足止めを食らった人たちの情報交換の場になっていた。
2011/3/15 8:18 震災5日目朝の蒲生二本木交差点
私にとってこの交差点が特に印象深いのは、横浜から救援物資を運んできた親会社のトラックと遭遇した3月14日早朝のことである。別の現場に物資を届ける前に、うちの会社の被災状況を確かめに来たのだった。この出会いは、それまで空回りしていたものがかみ合い始めた瞬間だった。この出会いにより、翌日の朝には利府に現地対策本部を設置し、救援物資の帰り便で被災状況やデジカメ写真を満載したSDカードを横浜の対策本部に届けてもらうことができた。もしこの出会いがなかったらと思うと、まさにこれは運命の出会い、あるいはむしろ運命を変える出会いだった。
拠点を失い、通信手段を失い、会社としての組織力を完全に失っていた我々が復興に向けての第一歩を踏み出したのがこの交差点だということを知る人は社内にも少ない。
23:43:00 |
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December 24, 2011
多賀ジャスの裏の高圧線
2011/3/16 8:14 イオン多賀城店裏にて(震災直後の様子)
津波により鉄塔のひとつが傾いてしまった多賀ジャスの裏の高圧線。撮影日は3月16日、安否確認ができていなかった社員の家をたずねて七ヶ浜まで自転車で行った帰りだった。
それまではまだ一度も多賀城方面へ行ったことがなかったため、多賀城が中野栄に比べてはるかにひどい被害を受けているということを知らなかった。アウトレットのすぐそばにある私のアパートも津波の浸水を受けたが、そこから多賀城方面へ500mも行けば世界は一変する。この傾いた高圧線も、津波の深刻な被害を象徴するひとつだった。
「電力の復旧にはかなり時間がかかるな」と思わせる景色だった。実際には信じられないようなスピードで復旧は進んだのだけど。
2011/12/24 13:48 イオン多賀城店裏にて(現在の様子)
23:29:00 |
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December 18, 2011
イオン多賀城店にて
イオン多賀城店。その名前になったのは震災直前だったので、イオンというよりはジャスコ多賀城店、通称「多賀ジャス」のほうがまだなじみが深い。イオン多賀城店が営業を再開したのは数ヶ月前にさかのぼるが、私が頻繁に利用するようになったのはここ1ヶ月ほど。しかし週末に来る機会がなかったので立体駐車場に車を入れたのは今日が初めてだった。
イオン多賀城店で撮影された津波の映像がユーチューブにアップされていて、私もたいていのを見た。その中でも特に衝撃的だったのはちょうどこれと同じようなアングルから撮影されたもので、屋外の立体駐車場の2階部分に結構な人数の方が取り残されている中、濁流のような津波が2階部分に迫る勢いで流れ込んでいるものだった。
結局そこにいた人たちも助かったということだったが、改めて現場を見てみると、そこで津波に遭遇した人の恐怖というのは相当なものだったと思う。どうやってもこれ以上高いところがなく、これ以上高い津波が来ませんようにと祈ることしかできない状況はまさに死を覚悟するにふさわしい状況であり、津波に飲まれて助かるのとはまた違った経験がそこにはあったのだと思う。
21:52:00 |
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November 10, 2011
あの日、キリンビールの角で待っていたバスは
震災以来ずっと不思議に思っていたことで、今さらながら今日やっとわかったことがあった。それは震災の翌朝、キリンビールの角の近くまで迎えのバスが来てくれていたということ。私自身は家が近いので家まで歩いたけれど、10km以上の道のりを全部歩いて帰る覚悟をしていた人たちにとって大きな救いだったのは間違いない。
2011/3/12 11:30 キリンビールの角から300mほど高砂埠頭側
しかしなぜあのタイミングでバスが手配されていたのか? 不思議に思いながらもよくわからないままだった。
今日はじめて知ったのだが、実はあのバスは仙台新港の各企業に取り残された人たちを運ぶためではなくて、壊滅的な被害を受けた蒲生地区にある中野小学校に避難していた人たちを別の避難所まで運ぶために用意されていたものだったのだ。中野小学校からキリンビールの角までは結構距離があるけれど、あの時点では中野小学校に近づける道がなかったため、結果的にキリンビールの角がバスの待機場所になったということだ。
そこに偶然居合わせた我々は運がいい。
23:14:05 |
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November 09, 2011
あの日、福島でも雪が降ったらしい
津波に襲われたあの日、仙台新港では大津波が押し寄せた後に無情の雪が吹雪のように舞った。それは私がいた仙台新港だけではなく、多賀城でも、ユーチューブで見る三陸海岸のほうでも同じように雪が舞っている。そして今日聞いた話では、やはり福島市でも同じように雪が舞ったという。ちなみにこの方は偶然関東から福島県庁に来ていたところで地震にあい、2日ほど避難所で過ごして3日目にやっと家族に連絡が取れて、迎えに来てもらったという。
しかし津波と雪、何か因果関係があるのではないかとやや本気で考えている・・・。
23:27:00 |
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