February 05, 2012

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October 25, 2011

ファイルメーカーPro再び

このところあまりにも蒲生干潟ネタが続いていたので、ちょっと違う話題を。

こないだの週末はたいして仕事もせず、かといって蒲生干潟にも行かず、久々にダメ人間モードで週末を過ごした。このところ頭が疲れ気味なのだが、疲労の主な原因は最近再び使い始めたファイルメーカーPro、と言うか、ファイルメーカーProを使って構築しているデータベースにある。

ファイルメーカーProは10年以上前にApple社から分社化したFilemaker社のデータベースソフト。前の会社に勤めていた2000年までは必要に迫られてかなり使い込んでいた。バージョンは確か2.1だったと思う。OSはMac OS 7.5とか8.1。直感的な操作を重視する旧Mac系のソフトだけあって、取説も解説本もほとんど見る必要がなかった。

それから10年以上、あまり必要性に迫られることがなかったためデータベース系のソフトからはずいぶんとご無沙汰していた。ところが最近どうしても自分でデータベースを構築するしかないことがあり、昔取った杵柄でファイルメーカーを導入することにした。

現在のファイルメーカーのバージョンはなんと11。2.1から11へバージョンアップしたことになるのだが、驚くべきは良くも悪くも基本的な使い方や操作方法がほとんど変わっていないということ。これはこのソフトが当時いかに先進的だったかということを示す一方で、その後それほど進化していないということも意味している。

とにかくも、10年のブランクにもかかわらず仕事はそれなりに順調に進んでいる。ただ、データベースを構築するというのは考えることが多くて非常に疲れる。通常Excelなどで集計したり資料を作るときの思考が縦横の平面とすると、データベース系のソフトは高さが加わった立体、あるいはその立体同士がリンクしてつながってぷかぷか浮いているような感じのものになる。なのでこれを構築するときに必要な精神エネルギーは相当なものになる。このところの頭の疲れはこの疲労が主要因であることは間違いない。

若いころはこういう作業が人よりも得意だった。このぷかぷか浮いているような全体像のイメージを作るのが得意だったのだと思う。今も人よりはできると思うが、当時のようには行かない。10年のブランクというのも確かにあるが、若いころの頭の柔軟さがあったればこそだったのかと感じている。

その一方で、今は当時よりも仕事にかかわる知識の幅が増えたことがなおさら考えることを増やしているとも思う。当時は自分の仕事がその先どうつながるのか知っている範囲が限られていたので、考えることが少なくて済んだ。今は仕事の入口から出口までほとんどを知っているので、気を配る範囲が格段に広がっている。なので、生みの苦しみというやつが以前にも増して大きくなっている。それだけに、ちゃんと完成してしまえばそれだけ当時よりも完成度の高いものができるのだと思う。

あとはなるべく頭の違う部分を使うように仕事の内容をローテーションするようにするなど、いろいろ工夫して補っている。頭も体も年齢とともに単純な機能は衰えていくのだろうけれど、そういった工夫があれば機能的にも若いころに負けるとは限らない。とりあえずそういうことにしておこう。

22:47:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

August 21, 2011

理想を抱きつつ、今できることに取り組んでいくこと

この週末は2週間後にせまったエコフェスタ仙台の準備や3日後に迫った下期見直し予算の作業をしながらも、両日とも半日弱の余力を作って東北歴史博物館と吉野作造記念館を見学するという「らしくない」充実した週末だった。

いずれも関心事は震災に関連したことであったが、日曜日に見学した吉野作造記念館では大正デモクラシーの時代の流れを作った吉野作造という人の生き方というか精神の持ち方というものに感銘を受けた。

自分に当てはめると、若いうちはあいまいとはいえ高い理想があり、ちょっとした曲がったことも許せず、それが信じる道をまっすぐ進むという強い気持ちを支えているのだけれど、だんだん年を取るにつれて現実を見据え、遠回りや必要悪を許容するようになる。そしていつのまにか目指していた理想を見失っていく。実際、今の自分はちゃんと何かを目指しているのか、自分でもわからなくなっている。

吉野作造という人は、天才的なひらめきや不屈の精神でひとつのことを成し遂げた偉人というようなタイプではない。長年かけてさまざまな学問や思想を吸収し、「民本主義」に代表される彼の思想が徐々に形成されていった。しかし大正時代の日本では、彼の思想と現実の社会には大きなギャップがあり、彼は理想と現実のギャップを知りつつも、55歳の生涯を終えるまでブレることなくまっすぐに進み続けた。この人がすごいと感じるのは、理想にはまだ手が届かないと知りつつも理想を目指して進み続けることができるということなのだ。それは信ずる道のために命を捨てることよりも難しいことのように思う。

彼が理想と現実のギャップを知りつつもまっすぐに進み続けることができるのは、「政治的な理想を抱きつつも、現実の社会で実現可能なことからひとつずつ取り組んでいく」というスタンスによるものだそうだ。ここに、今の自分に必要な大きなヒントがある。

私の場合、「今できることからひとつずつ取り組んでいこう」というスタンスはわりと以前から持てていると思う。地道な努力を惜しまないのは良いとして、問題は地道な努力の中でその先に目指している理想というものをよく見失ってしまうことなのだ。今は理想には程遠く、自分にできることからコツコツとやっていくしかないにしても、やはり本当に目指している「理想」を見失ってはいけないということなのだ。

ちゃんと理想が見えていればこそ、状況の変化に対してどうするべきかを判断することができるし、地道な努力の中で訪れたチャンスを見逃すことなく、次の展開へつなげることができる。

理想を見失ってしまえば、日々の地道な努力は何の意味を持つのかわからなくなってしまう。自分で自分を洗脳してしまったようなものだ。それがある意味今の自分の姿なのだろう。

『理想を抱きつつ、今できることに精一杯取り組む』
これをこれからの指針としたい。
理想は遠くても、決して理想を見失ってはいけない。

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August 07, 2011

女川原発はどうして無事だったのか?

今日は石巻よりさらに足を伸ばして牡鹿半島方面へ。
いくつか見たいものがあったのだけど、一つ目の関心事は女川原発。福島第一原発が津波であれだけの被害を受けている中で、震源地に近いはずの女川原発はどうして無事だったのかということ。はじめは太平洋に面しているかどうかの違いかと思ったけれど、実は女川原発ももろに太平洋に面していて、しかもほぼ真正面が震源地という最悪の立地。なのになぜ無事だったのか?

最初に目指したのは女川原発のすぐ近くにあるPRセンター。そこに行き着くまでの道のりも片側通行や迂回路があちこちにあり、仙台市内のようには復旧が進んでいない。そして原発のちょっと手前で目に入るのがこの看板。「なくせ原発 事故で止まるか みんなで止めるか」。


そしてPRセンターは休館していた。予想はしていたけれど。


しかしここまで来たからには原発を見ておかないと気がすまないので、原発が直接見える場所を探して行ってみた。


一目見た印象として、思っていたよりずいぶん小高いところに建設されていると感じた。福島第一原発のほうはニュース映像とかで見ただけなのでわからないけれど、女川原発のほうは明らかに海面よりも一段高いところに建設されている。この高さの差は津波に対しては単純に有利だと思う。あとは周りの半島や小島の配置が偶然有利に働いたのかもしれない。

ちなみに、このあたりの津波の高さは仙台港に比べるとはるかに高い。下の写真の右隅に写っているのが女川原発の近くの谷川小学校の校舎。女川原発と同じように海面よりもだいぶ小高いところに建っているのだけれど、2階まで完全に水没している。これと比較すると女川原発の建物にも津波が到達したように思われるのだが・・・? 大丈夫だったのだろうか?



あとはついでにせっかくここまで来たので牡鹿半島先端までひとっ走り。海を挟んで向こう側に見えるのが有名な金華山。その先ははるか太平洋。


22:37:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

May 15, 2011

さらばMR-S

ネッツトヨタに修理を依頼していたMR-S。エンジンも半分くらい水没していてエンジン周りの電気部品も全滅ということで、修復には150万円くらいかかってしまうという点検結果だった。
さすがに百万円以上かけて修復するのは現実的ではなく、徹底的な清掃作業もむなしく廃車ということになってしまった。
廃車手続きのための印鑑証明を取得して、ネッツトヨタに届けてMR-Sに最後のお別れをした。

コーナーの出口に向かって踏み込んでいく気持ちを取り戻すためにFF車から乗り換えた後輪駆動のMR-S。閉ざされた気持ちを開放してくれるオープンカー。何もかもを見失い、希望を探していたあの頃の心理が選ばせた黄色い車。
この車にもそれほど多くの思い出はない。それでも自分が自分であることを取り戻すために必要な存在だったことは間違いない。どん底からの復活になくてはならないものだったと思う。

これまでこの車には愛称を付けていなかったのだけど、今になって思えばこの車は私にとって「希望の光号」だったのだと思う。

さらばMR-S。そしてありがとう。



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