November 27, 2011

七北田川だけではなかった、河口閉塞・・・・いわき編

今日は別件でいわき。
いわきには震災後も仕事で一度来ているけれど、海岸部を見るのは今回が初めて。原発よりも南側の海岸を見るのは今回が初めてになる。

まず、津波の被害は海岸間近の家屋は基礎しか残っていない状態になっていたものの、新地や相馬、あるいは仙台と比べても単純な津波被害の規模は比較的軽微に見えた。津波で壊滅的な状態になっているのは海岸から数十メートルのわずかなエリアのみで、内陸部まで瓦礫が押し寄せた仙台平野とはだいぶ様子が違っていた。

しかし今回私の目を釘付けにしたのは、七北田川と同様の河口閉塞がこのあたりの河口でも見られたことである。

滑津川河口
 
滑津川は地図で見ると河口に砂州が形成されていて、やはり元から河口閉塞気味だったように見える。しかし今は完全に河口閉塞していて、七北田川で言うところの貞山堀のような横に伸びる水路もなく、川の水は地下浸透で海へ流れ出ているとしか考えられない状態になっている。

夏井川河口
 
 
夏井川は広い河川敷を持つけっこう大きな川。これだけ規模の大きな川の河口が完全に閉塞している。夏井川の場合は河口のすぐ上流に貞山堀と同じように横に伸びる運河があり、川の水は運河のほうに流れているものと思われる。夏井川の河口には葦原が茂っており、本来は典型的な河口干潟が形成されていたものと推察されるが、今はほとんど淡水の世界になっているものと推察される。

現在の夏井川の河口
 
夏井川の水が流れ込んでいると思われる運河をたどると、夏井川河口から3kmくらい北側で海とつながっている。地図で見るとこの運河には途中でたくさんの小河川が流れ込んでいて、それらがすべてこの河口から海で出て行っているようである。この河口には砂の堆積はまったく見られない。夏井川の上流から運ばれてきた砂は夏井川の本来の河口に堆積し、運河のほうには流れ込んでいないということだろう。

これまで、河口閉塞は七北田川の特殊な現象と思っていたが、同様の河口閉塞がこんなに頻発しているというのはかなり驚きだった。いずれの河川も震災前から常に河口閉塞気味だったようだが、震災後はなぜこんなにも実際に閉塞するようになってしまったのか。七北田川の場合は横に伸びる運河の水門の破壊が原因と言われているが、実際どうなのか、改めてこの目で確認してみたいと思った。

p.s.
ついでに、いわき市の「いわき」って漢字でどう書くのか知らなかったけれど、わかった。『磐城』これが由緒正しき表記のようだ。


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November 12, 2011

松川浦ほか、福島方面もりだくさん

今日はなんと、東京からはるばる来ていただいた私の干潟の師匠、中瀬さんと一緒に松川浦など福島方面沿岸部の湿地を観察してきました。
(内容が多いので、毎日少しずつ書き足していきます。)

松川浦 環境公園(尾浜地区)
7月や8月の観察でもたくさんのヤマトオサガニが生息し、津波の影響があまり見られなかった場所。当時はまだ施設の再開には程遠い感じだったが、施設再開に向けて着々と準備が進んでいる様子だった。
 

7月ごろは瓦礫を取り出すために干潟に重機が入ったりしていたが、今は瓦礫の撤去も終わり、干潟に重機の走行痕が残ったりしているものの、落ち着きを取り戻している。干潟にはあいかわらずヤマトオサガニがうじゃうじゃ見られ、また、今回は震災で地形が変化してできたと思われる水溜りにホソウミニナなどの巻貝が大量に見られた。また、同じところでケフサイソガニも見られた。
 

松川浦 環境公園の外側
これまで、環境公園周辺の地形をちゃんと観察したことがなかったのだが、今回は環境公園先端のほうまで歩いてみて、環境公園周辺の干潟は松川浦本体から微妙に切り離されており、半ば人工的に作られた干潟だということがわかった。境界線の小さな堤防の右側が環境公園、左側が松川浦本体で、松川浦側は底質がかなり砂っぽくなる。
ここでの発見は、ついさっきまで海底に植わっていたようなアマモが流れ着いていたこと。規模はわからないけれど、震災の後も松川浦の中に藻場が形成されていることを意味している。
 

松川浦 尾浜地区ローソン脇の干潟
7月や8月に来たときはヤマトオサガニパラダイスになっていたローソンの駐車場脇の干潟だが、ヤマトオサガニの数は大幅に減少していた。一方で葦がかなり成長しており、淡水の流入量の増加か逆に海水の流入不足なのか、かなり淡水化しているのではないかと思われる様子だった。もともとここは松川浦からちょっと離れているので、海水が流れ込んで干潟になっていること自体が不思議な場所なのでいたしかたないかというところか。
 

道路を挟んで南側の干潟のほうには相変わらずヤマトオサガニが大量に見られた。逆にこちら側には相変わらず葦原が全然ない。
 

松川浦 宇多川河口
宇田川河口にやってきたのは今回がはじめて。宇田川河口近くの砂浜にはコメツキガニの巣穴が見られた。だがこれは序の口。


宇多川河口での一番の発見は、河口から数十メートルのこの場所でサケの産卵行動が見られたことである。
 

こんな河口部でサケの産卵行動が見られたことには、2つの要因が考えられる。
ひとつは、宇多川のちょっとだけ上流に網が設置され、宇多川をサケが遡上できないようになっているためである。そのため、網のところには行く手を遮られたサケが大量に群れていた。上流へ向かうことをあきらめたサケが手近なところで産卵場所を探しているのかもしれない。
 

もうひとつは、宇多川のほぼ河口の汽水域にありながら、この場所に限っては湧き水が湧いているようで、常に水が澄んでいて上流部と同じような透明な淡水の世界がスポット的に存在するということである。サケが何をトリガーに産卵場所を選ぶのかわからないが、水温、透明度、塩分濃度など、上流の産卵場所と似たような環境がここにあるのではないかと思われる。
 

 

湧き水があるのは幅10mにも満たない狭い範囲で、いかにも湧き水が出ている雰囲気のある左のほうでは4尾くらいのメスが場所の取り合いで争っていた。やや濁りのある右のほうでは体の大きなメスと小さなオスがカップルになっていて、メスは時々体を横にして尻尾で川底を掘るような動作をし、オスのほうは時々体を細かく震わせて産卵を促すというテレビでしか見たことがなかった産卵行動を行っていた。

私はサケの産卵どころか泳いでいるサケを見たことがなかったので、今日は非常に運が良かった。しかし、いくら湧き水があるとはいえ汽水域のど真ん中のこの場所では卵はなかなか無事ではいられないだろうし、そもそも卵を産んでもまた別のサケが掘り起こしてしまって、子孫を残すのはなかなか難しいと思う。

松川浦 宇多川と小泉川の間の中洲
宇多川河口の少し北にはもう一本小泉川という小河川の河口がある。2つの川に挟まれた中州には田んぼがあり、遠目で見ると海水の流入で干潟のようになっているように見えたので、細い道に入り込んで近くまで行ってみた。

 
ここでまず驚いたのは、なんとここにもサケが入り込んでいたことである。迷い込んでしまったとしか考えられないが、サケのような大型の魚が入ってこれるだけの水路が松川浦本体につながっていることを意味している。

 
そして、このエリアの田んぼは継続的な海水の流入によってヤマトオサガニやウミニナなどが住み着き、すっかり干潟になっていた。「どんな環境の変化があってもその環境にあった生き物が住み着くようになる」ということの典型例のひとつだった。
考えてみると、もともと松川浦周辺の田んぼはみんな干潟を干拓して作られたものなので、元に戻っただけなのかもしれない。しかしここもいずれは農業を再開するために整備されて田んぼに戻るのだと思う。

梅川河口
松川浦のほぼ南端。梅川の河口は川と言うよりも用水路に近い構造で、河口としてのおもしろみはあまりなかった。松川浦の北半分では水面に顔を出していた松の木などが撤去されてきれいになっていたが、このあたりでは当時とあまり変わらない姿で水面から顔をのぞかせていた。
砂浜にはコメツキガニの巣穴や小型の巻貝がたくさん見られたが、今回注目したのはいろいろな水生植物。それぞれ名前があるのだけれど、勉強不足でちゃんと覚えていない・・・。
 

 

梅川河口近くの水田跡
梅川河口での発見としては、先ほどの宇多川河口とちがってこちらの水田跡には淡水の世界が戻ってきていることである。
 

 
この水田跡は明らかに松川浦の水面よりも標高が低く、干拓で作られた水田である。震災後しばらくは海水が流入して干潟のようになっていたと思われるが、どこかのタイミングで再び干拓されて、現在は淡水に戻っている。今日見られた淡水の生物はミジンコ、ザリガニ、サカマキガイ。ドブ川と同レベルの環境ではあるが、これだけ海に近い場所に淡水の世界があるというだけで現段階では最先端。

22:43:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

November 10, 2011

あの日、キリンビールの角で待っていたバスは

震災以来ずっと不思議に思っていたことで、今さらながら今日やっとわかったことがあった。

それは震災の翌朝、キリンビールの角の近くまで迎えのバスが来てくれていたということ。私自身は家が近いので家まで歩いたけれど、10km以上の道のりを全部歩いて帰る覚悟をしていた人たちにとって大きな救いだったのは間違いない。


2011/3/12 11:30 キリンビールの角から300mほど高砂埠頭側

しかしなぜあのタイミングでバスが手配されていたのか? 不思議に思いながらもよくわからないままだった。

今日はじめて知ったのだが、実はあのバスは仙台新港の各企業に取り残された人たちを運ぶためではなくて、壊滅的な被害を受けた蒲生地区にある中野小学校に避難していた人たちを別の避難所まで運ぶために用意されていたものだったのだ。中野小学校からキリンビールの角までは結構距離があるけれど、あの時点では中野小学校に近づける道がなかったため、結果的にキリンビールの角がバスの待機場所になったということだ。

そこに偶然居合わせた我々は運がいい。

23:14:05 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

November 09, 2011

あの日、福島でも雪が降ったらしい

津波に襲われたあの日、仙台新港では大津波が押し寄せた後に無情の雪が吹雪のように舞った。

それは私がいた仙台新港だけではなく、多賀城でも、ユーチューブで見る三陸海岸のほうでも同じように雪が舞っている。そして今日聞いた話では、やはり福島市でも同じように雪が舞ったという。ちなみにこの方は偶然関東から福島県庁に来ていたところで地震にあい、2日ほど避難所で過ごして3日目にやっと家族に連絡が取れて、迎えに来てもらったという。

しかし津波と雪、何か因果関係があるのではないかとやや本気で考えている・・・。

23:27:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

November 06, 2011

中野栄防災の集いシンポジウム

このところ、震災のころを振り返るような催しが開かれるようになってきた。
ここ中野栄でも「3.11に学ぶ」と題して震災のときに地域としてどのような取り組みがなされたのかを振り返るシンポジウムがあり、参加してきた。
震災当時、私自身は会社としての取り組みが最優先で、地域としての取り組みについては大家さんからちょっと話を聞いた程度だったので、今日の話は何かと興味深いものだった。

脈略はないけれど記憶に残ったことをメモする意味で書いておく。

まず、震災当日の夜、中野栄には仙台方面から塩釜方面へ徒歩で帰宅する人たちが足止めをくらい、多くの帰宅困難者が中野栄小学校に身を寄せたという。初日の中野栄小学校の避難者は3000人くらいいて、ありったけのアルファー米で小さめのおにぎりを3000個作って朝食として配ったという。

津波の第一波は中野栄では国道45線南側のタンノ薬局のところで止まり、第一波が引いた後に第二波が来て、第二波は45号線のセンターラインまで来た。中野栄駅前ではそれがMaxで、国道を越えることはなかった。中野栄駅前で見ている限りは同じ45号線沿いでも多賀城方面があんな状態になっているとは思わなかったという。

地元の消防団は地震発生直後からポンプ車で走り回り、仙石線よりも北側へ避難するように呼びかけた。走り回った地域は当然仙石線よりも南側の地域で、津波で車が流された地域だが、出花部と栄部の消防団の人たちは幸いにも無事だった。しかし蒲生のほうでは同じように避難を呼びかけていた消防団の方が亡くなっている。

消防団の人たちは震災翌日から津波倒壊地域の捜索活動に参加している。私も震災後3日目に会社へ歩いて行ったときにたくさんの消防団の方に会ったが、それがまさにこの人たちだったのだ。

同じ中野栄でも、小学校のほうは地域とのつながりが深いため地域の防災組織や町内会との連携がスムーズに行ったが、中学校のほうは震災後数日間は先生方だけで疲労困憊しながら運営していたという。その話が小学校に届き、応援体制を組んだのは震災後5日目だったという。

中野栄小学校では初日から市民センターをご老人や身障者のための福祉避難所として運営していた。重点的なケアが必要な人への配慮としては成果があったが、その情報は肝心の身障者に対して十分に伝わっていなかったようだ。

中野栄では地域が主導権を握って避難所を運営したが、実はこれは珍しいケースらしい。

23:28:00 | blueskyland | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks